| 立ち読み 〜「はしがき」と「あとがき」〜 |
はしがき
70年代の初め、私はウナムーノ著作集を日本語に翻訳する仕事を手伝っており、哲学の授業で彼の思想を取り上げたこともある。
たまたま同じ頃、和辻哲郎の『風土』のスペイン語訳をしていたので、風土と歴史、伝統と文化などに関する、この二人の哲学者の思想について比較しながら論文を書いたりすることになったが、時間が経つにつれて比較文化論の困難をますます感じるようになった。
そういうわけで今回は比較研究でなく、ウナムーノだけを取り上げることにした。和辻についてだけではなく、日本の文化と思想との私の出会いについて別な形で書きたい気持ちはあるが、いつ時が熟してくるか明らかではない。
ミゲル・デ・ウナムーノにおける人間観に関しては、1976年にスペイン語で『ウナムーノの著作における形而上学的な問い』と題する論考を公にした。あれから25年以上経った今、ウナムーノを読み返してみると、時代の雰囲気が随分と変わっているので、そこから読み方に影響を受けざるを得ないことが分かる。
もはや実存主義のはやった時代ではないということは、70年代においてすでに言われていたが、さまざまな「ポスト……主義」の批判を踏まえた上で、最近の最先端技術の時代における人間喪失を目のあたりにして、あらためて実存思想の中から今でも妥当な洞察をよみがえらせる必要のあることをつくづく感じさせられるのである。
ウナムーノの主なテーマは「希望への闘争」であったが、その闘争の中で常に生の意義への問いと格闘し続けた彼は、四つの根本的な状況において人間存在の矛盾に直面した。それは、死、ねたみ、嘘、戦争である。矛盾に満ちたこの四つの状況において希望への闘争が展開されるので、そこから生まれる人間観や倫理思想は、その四つの矛盾の克服に向かっていくものである。
ドン・キホーテらしい倫理観とでも呼ばれるべきこの哲学の軸には、絶えざる葛藤と希望が絡み合っている。そして最終的には、形而上学的な不確かさと詩的なカタルシスが統合されきれないままになっている。
しかし、その中から積極的な倫理観の芽生えとして、創造性(creatividad)、善良(bondad)、誠実(sinceridad)、共生(convivencia)の四つの理想が、ウナムーノから現代の読者に課せられるようになる。
日本から見れば、相当異質な思想家のように思われるミゲル・デ・ウナムーノの哲学が、彼自身が望んでいたように、弟子を作るのではなく、読者自身の考えを発展させるための刺激になれば幸いである。
あとがき
私が、ウナムーノを手がかりにして文化の特殊性と人間の普遍性について初めて講義で取り扱ってから30年が経った。そのきっかけとなったのはウナムーノの邦訳に関わったことであった(神吉敬三、アンセルモ・マタイス、J・マシア、佐々木孝編集『ウナムーノ著作集』全五巻、法政大学出版局、1972〜1975年)。
あの企画を指導したマタイス教授と編訳の主な負担を引き受けてくださった故神吉先生をはじめ、邦訳のために大変な労力を尽くした佐々木孝氏および翻訳に携わった多くの方々に対して今も感謝してやまない。
私が和辻哲郎の『風土』のスペイン語訳を仕上げていたのもあの頃のことである。今、30年を経て、あらためて同じテーマに取り組む必要性を感じている。グローバリゼーシォンとローカリゼーシォンの間の緊張と矛盾に悩み、言い換えれば、各地域の特殊性を生かしながら人類共通なものと真の地球化を暗中模索している現代人にとって、ウナムーノやオルテガ、または日本で和辻が提起していた問題は今なお緊急な課題なのである。これに関しては序文に触れたが、ここで同じ主張を繰り返してあとがきに代えさせていただきたい。
それは、ウナムーノの生涯、思想、著作を取り上げた本書を貫いている自己への問いかけであり、三つの視点からその問いを追求しなければならないということである。換言すれば、自己への問い、自国への問い、人間性への問い、この三つの問いの不可分性なのである。
前述したように、ミゲル・デ・ウナムーノは『生粋主義をめぐって』の中でスペインの伝統を見直し、当時対立していた「国粋主義」と「近代化」といった二つの動向の短所を指摘したが、和辻の『鎖国』と読み合わせて、私はずいぶんスペインと日本における伝統と創造について考えさせられたことがある。それは、本書で取り上げている異質な文化との接触と自己の同一性への問い、または人間存在の風土的・歴史的な規定とその超越の可能性という問題である。
ウナムーノが活躍した転換期において、現代すなわち21世紀に入りかけた私たちと相通ずるところが少なくない。つまり、過渡期と激動の時代において自己を問い続けたこの哲学者は、自国への問いおよび人類への問いをあくまでも追求してやまなかったのである。考えてみれば、この三つの問いかけこそ、私たちが向き合っている現代の社会状況において、未来への方向を見出すために最も必要とされているのではないだろうか。しかも、こういった三つの問いかけの総合的な関係を正しくとらえるという課題を私たちが負っているとするなら、その絡み合いの中で悩みながら考察したウナムーノの思想と作品とに改めて取り組む意味があると思う。
21世紀を迎えたヨーロッパには従来の国家を超えた大きな連邦に向かっていく動きがあると同時に、地域自治や独立を強調する側からの抵抗も出てきており、この二つの動きの間に起こる緊張は未解決である。であるから自己を問う際の「特定地域の一員としての自己」と「世界市民としての自己」を統合させるのは、従来の国民国家であるべきか、それとも、より大きな単位の連帯や連邦がその役割を果たすべきかという議論がなお続けられなければならない。
日本の場合はまた、アジアにおける日本と世界における日本の位置づけを考えるとき、戦後における日本の伝統と新しい日本の創造への歩みの困難があるが、これについては私から述べるところではないだろう。この点に関して私は最近日本で行われている「公共哲学」の見直しを高く評価し、特に山脇直樹氏の『新社会哲学宣言』は大いに参考になると思う。
とにかく、現代の日本人もどのように自己をとらえるか、また日本人としての自己を媒介にしてどのように世界市民的な自覚を促進するかという課題を抱えているにちがいない。スペインのウナムーノとオルテガが国際主義と国粋主義の狭間で人間性の覚醒を訴えていた頃と、日本の和辻哲郎が風土の自覚と風土の超越を追求していた頃とはずいぶん時代が異なってはいても、そうした根本的な問題の前に今もなお現代人は立たされているのではないだろうか。それゆえにこの問題を見つめ続けた思想家たちを読み返すことには意味があると思う。
夏目漱石が有名な講演で提言した「個人主義」も、狭い国家主義と浅い外国崇拝主義を避けようとし、しっかりした個性のある個人によって形成される「公の場」こそ真の民主主義的な社会を支えていることを把握し、それが日本に欠けていることを鋭く指摘した点でウナムーノとオルテガと相通ずるところも少なくないと思う。
ウナムーノは表面的な近代化に疑問を持ち、スペインが「内なるスペイン」を深めながらヨーロッパへと自己を開くところにスペインの再生があると唱えた。
こうしてみると、伝統と創造の統合をスペインも日本も問題として抱えてきたのではないかと思うが、ここで私の恩師である湯浅泰雄先生の言葉を思い浮かべる。「東洋人にとって、東と西の関係は内と外の出会いであるよりも先に、まず自身のうちなる出会いである」(『近代日本の哲学と実存思想』創文社、7頁)。日本におけるこれからの哲学には、ますます比較思想史的な反省が必要となってくるであろう。そして、こうした比較の前提には、自国の思想史についての振り返りが必要である。「現代と言う時代に生きる我々にとっては、第一の自己反省的姿勢を通過することなしに第二の普遍的姿勢には至り得ない」(同上、6頁)。
ここで改めて和辻の言葉を思い起こしたい。35年前に訳した和辻哲郎の『風土』の中の次の言葉である。「ヨーロッパ人は心の中で自分たちが世界の中心だと思い続けている」。それは私にとって大変印象的であった。21世紀に入ったこの頃、前述したように、地球化への動きと同時に特殊化への傾向も強まり、諸文化間の緊張対立が解決できない状況でもある。
異国文化をとことんまで理解しようとすれば自国文化の人間観が危機にさらされるに決まっている。他者を見て初めて自分がわかると同時に他者によって変革させられて自分のアイデンティティーが再構築されるのである。その覚悟で自分と違う者と関わり、互いの変革を目指して、初めて真の国際交流が行われると言えよう。それはこれからの諸宗教の対話と文化の関係を考え直すための手がかりになるのではないかと思う。……
この課題と取り組んでいくに当たって拙著がささやかな貢献をすることができれば筆者として幸いである。
ホアン・マシア