| 立ち読み 〜緒言と後書から〜 |
緒 言
―本書の構成と使用者への提言―
本書は、新約聖書のギリシア語本文を読む人のために、日本語で書かれた文法書としては、できる限り詳しい資料として編集されました。個人で独習書として使う場合も、教室で教科書として使う場合も(特に詳細な説明や専門的な注の部分を適宜省略して進めば)何より実用的であることを念頭に置いています。
本書は、大阪聖書学院の教室で著者が、三十数年にわたって教材として使用しながら、少しずつ書き改めて今の形に仕上げたもので、最初のペン書き原稿のコピー版から始まって、SHARP社の「書院」に自製のギリシア文字を「ユーザー辞書」を利用して入力したワープロ版から、日本コンピュータ聖書研究会により変換電子化されたCD-ROM版に至るまで、教育の現場での実験を重ねた上で、今回の教友社版の発行となったものです。著者と学生たちの目的は常に、イエス・キリストの福音を新約聖書から読み取ることにあり、単なる語学や文献学への関心以上のものでした。
学院では、第2課から第36課までを初級用(課目としてのギリシア語T)に使用しました。初級とは言え、履修者がそれだけで十分にギリシア語の新約聖書を味読できるように、必要な知識をこの部分に網羅しました。後半、第37課から第40課までは上級用(ギリシア語U)に使いました。後者は内容が詳細にわたるのと、同時に新約本文訳読の演習も行うため、統語法と動詞分類の全部をカバーすることは稀で、通常教室では38、39課を履修するに留めました。
教室では第6課から講義しました。現在能動直説法 λυω, λυειs, λυει……から演習するためです。音韻論と正字法に関するルールは、進む間に必要が生じるに応じて前の頁を参照するようにします。発音は開講前にテープで自習させました。本書を教科書として使用なさる場合も、また独習用に利用される場合も、同じように第6課「現在能動直説法」から始めることを、お勧めします。
本書の構成は次のようになっています。
第一部 新約ギリシア語の“前”と“後”
前史時代から現代ギリシア語の国語改革までの歴史の流れの中で、聖書の言語を捉えます。
第二部 文字と音韻
音韻論に関わるあらゆる現象と、ギリシア人の筆跡見本による筆記への示唆。なお本書ではギリシア人の使う発音を基準としながら、欧米で慣例になっている、いわゆる「古典的発音法」(エラスムス式発音)をも併記しました。第1課〜第4課。
第三部 動詞(上)
動詞単純形(合成動詞でないもの)の直説法の全活用を扱いました。この部分では、いわゆる「不規則変化」と言われる語形の成立にも、その背後に“語の構成と語源から来る理由”があることを説明し、動詞の活用形については、第四部以下で(注による参照以外)説明を反復する必要がないようにしています。第5課〜第15課。
第四部 名詞(形容詞と代名詞をも含む)
第1、第2、第3変化の全部を扱いました。本書の編集(学習)方針として、基本からの「積み上げ方式」を採用しているため、名詞は動詞直説法の全組織が終わってから出るようになっています。λογοs
も αγαπη も300頁前後まで出てこないという独特の編集は、通常、現在能動→第1変化→現在中受動→第2変化と進む形の従来の文法書の慣例からは外れますが、読者は、名詞に入る前に、すでに動詞の直説法に関する知識を基礎として完全に持っている訳です。第16課〜第28課。
《補足 第三、四部について》
本書では各課の練習問題を充実させ、第6〜15課では各課に希和40題、和希40題の翻訳問題を配してありますが、これらは名詞を未習得であるため、すべて一語で一文の形にし、考え得るあらゆる動詞形の演習を目的としています。第三部の結尾には、そのまとめとして、和希150題の総復習問題を掲げました。名詞を習得した後の第16課以下では希和20題、和希20題の練習問題を配し、第36課では問題はすべて新約聖書本文の形を取るようにしてあります。この間、後半の練習問題もできる限り新約本文からやさしい文型(例:分詞構文習得前は分詞を含まず、しかもコイネーとして自然)に書き改めています。
第五部 動詞(2)
すでに第三部で直説法の活用をカバーし、第四部では名詞組織のすべてを学んでいるので、この第五部ではまず動詞でありながら名詞の性質をも分有する名詞と不定詞から始めて、直説法以外の法すなわち命令法、接続法と希求法の全語形を扱い、それぞれの法を使う場合の統語法にも触れました。最後の35、36課では、条件文と非人称動詞も扱いました。第30課〜第36課。読者はこれで文法の全体を把握することになります。
第六部 統語法補講
普通「統語法」として扱われる材料のうち三つの項目、接続詞と小辞、名詞の格、動詞の時称の統語法と、動詞の活用のパターンを分類する目的で「現在幹の構成から見た動詞の類型」を扱いました。最後の部分は小論文に近いもので、この動詞組織の分類には約40頁を割きました。資料としては、アテネ大学名誉教授Γ・クルムリスの講義録「ギリシア語の歴史文法」を使いました。第37課〜第40課。
付 録
索引3種と練習問題の解答。「解答」は独習者が自分で解いた後で正解を確認するのに便利かと考えました。この解答だけで約50頁あります。
なお、書名に掲げた言語名は、文部省と日本古典学会の「ギリシア」を使い、『新約聖書のギリシア語文法』としました。
織
田 昭
後書き
―主要資料と感謝の言葉―
日本コンピュータ聖書研究会(JCBR)の能城一郎氏から、この文法書の“電子化”の御提案を頂いたのは、1996年の8月でした。元々シャープのディスクに約180の外字を使って入力したギリシア文字と邦文の混じった1000頁近いものを、電子的にWindowsに変換することは、私にはまず不可能と思えました。その外字の部分を記号化してギリシア文字のフォントに打ち直すためのプログラムをJCBRの堀川寛氏が作成し、1999年の6月から半年の時間をかけて、変換と編集の作業をして下さいました。不可能を可能に変えて下さった御二方に、感謝の言葉を捧げます。
パウロやルカと同時代のギリシア人やヘレニストは別として、私たち現代の日本人が新約聖書の原典をひもとく場合、言葉の壁が私たちのエネルギーのかなりの部分を消費します。「これは何という単語のどの語形なのか?」……その労力と時間を最小限に縮めて、ヨハネやパウロが語る意味内容そのものに思考を集中できたら、そして、彼らが伝えたいイエス・キリストの福音に、じかに触れることができたら、私たちの原典味読はどんなに大きな収穫に恵まれることでしょう!
しかし、実際にはその距離の短縮は、私たち一人ひとりの、能力に応じた努力と修練によるほかはないのです。正確な文法を能率的に習得することと、良い辞書を根気良く引くことに代わる近道はありません。
「語形の分析や文法の詮索を1秒の何分の一かで済ませて、意味を味わいたい」「英字新聞を読む程度に、ギリシア語の内容が解りたい!」。そこに達するには、多くの努力と時間が必要でしたが、私の場合は幸いそのギリシア語を話す人たちの世界に、丸3年間どっぷり浸かるという形で、ギリシア語で考えながら口を動かす訓練を受けました。もちろん今のギリシア語は、聖書の言葉と全く同じではありません。
しかし、本書第一部でも述べたように、現代ギリシア語は新約聖書のギリシア語を母体として生まれたものなのです。耳から入る会話や朗読も、訓練を重ねることによって、テロップや電光掲示板のように、正確なスペルで脳裏のスクリーンを、リアルタイムで走るようになります。文法とはその電光文字の背後にある、長い歴史を持つ組み立てを分解したものなのです。
アテネ大学のΓ・クルムリス教授(当時)からは「ギリシア語の歴史文法」の講義と著書によって、古典以来のギリシア人の言葉の組み立てと思考の跡をたどる方法を教えていただきました。『現代ギリシア語大辞典』の編者Γ・バビニョティス教授からは、同じ言葉の流れから生まれた現代文学の作品の味読を教わりました。ソフォクレスやアリストパネスの講解をされたΣ・コレス教授、ロマノスの宗教詩の美しさに目を開いていただいたΝ・トマダキス教授、プラトンへの手ほどきを受けたヴルヴェリス教授らのお陰で、私にとって新約聖書の言語は、前後の文脈を持った、生きて脈打つ言葉となりました。
しかし、何より私を支える力となったのは、主にあって兄ともなり、父ともなって愛してくださったΜ・シオーティス教授とその御家族でした、本書は、私の中にギリシア語の生きた文法を組み立ててくださった、これらの恩人たちに、特に愛の人シォーティス教授を通して、感謝を込めて主に捧げられています。(献辞を参照)
アテネのギリシア人から頂いた貴重な宝を、生かして身につけるための土台になったのは、やはり書物を通して学んだ文法の基礎知識でした。若い日に教科書として使ったW・H・DavisやDana & Manteyの文法書、表紙から表紙まで夢中で通読したFunk訳によるBlass & Debrunnerの文法書による訓練がなかったら、生きたギリシア人から受けたものも私には「猫に小判」となったでしょう。J・Humbertの統語法も恩師クルムリスのギリシア訳によって、フランス語の不得意な私に手の届くものとなりました。
その他、シャルル・ギローの『ギリシア文法』(アテネ文庫)、田中美知太郎・松平千秋共著の『ギリシア語文法』(岩波書店) と『ギリシア語入門』(岩波全書) も、新約聖書の言葉の土台になった古典文学の文法を知る上で、深い背景と広い文脈を与えてくれました。新約聖書の文法としては、神田盾夫著『新約聖書ギリシア語入門』(岩波全書)を、必要に応じて参照させていただきました。
語学は「人に教えることによって身につく」と言われます。私の場合は、教室で学生の質問に答えられるだけの知識を、自分で積み上げながら、自分のギリシア語を習得して行ったと言えるでしょう。
ερχομαιのアオリストがなぜηλθονになるのか、ανοιγωの完了はなぜανεωγαという異様な形になるのか、εργαζομαιの加音はどうしてειργασαμηνなのか等、私自身がその語源や古形まで把握して理解していなければ、答えられない課題を、まず自分で解く必要に迫られたのです。本書のやや詳細に過ぎると思われる語形の説明や[注]は、この確認のために記述されました。
βασιληοs=βασιλεωs等で長母音+短母音の連続を長短入れ替えによって読み易くした「音量交換」の現象も、このギリシア人の癖?が関西方言の「オショユー」(お醤油)に並行例を持つことの発見から、教室ではギリシア人から習った《αντιμεταχωρησιs》(音量交換)という正式名より、関西人の「オショユー現象」として説明することができました(§17の1b)。
ヴィーナー Johann Winerによる正しい発見と提唱以来、新約聖書の言語は決して、聖霊が作り出した孤立した聖言語ではなく、使徒たちが生きた時代の庶民の「共通語」η κοινη διαλεκτοs
として取り扱われるようになりました。しかし、言語という媒体としてはともかく、そこに盛られた内容について言うなら、この一時代の平凡な「共通語」の中には、「神の息吹き」がこめられて(θεοπνευστοs、1テモ3:16)いて、これを読む者は、命を与えようと迫って来られる生ける神と、直接向き合うことを知らねばなりません。その意味でも、この「共通語」の文法を学ぶ者は、学んだ内容を絶えず自ら確かめながら、共に学ぼうとする有志の人との対話の中で伝えて行くことが望ましいのです。語学は「人に教えることによって身につく」のですから。
この『新約聖書のギリシア語文法』…(中略)…の出版に先立つ最後の試行段階で、本書を教室で教科書として採用され、また校正の労をとられた杉山世民氏には、負う所が多くあります。初版の制作費を拠金して下さった、久能木信宏氏ほかの同信の友人たちに、E・ベックマン氏をはじめとする敬愛する先輩方に、また大阪聖書学院出版部と大阪クリスチャン・ミッションの御好意に感謝して、神を崇め称えます。
2003年4月20日
著 者