●信頼される情報発信を目指して



 以前の職場に、キリスト教系のカルト団体の脱会者がアルバイトで来ていました。すでに脱会の傷も癒えたらしく、「同じ問題で苦しんでいる人のためのケアをしたい」とインターネットを通じて情報提供をしていました。彼はキリスト教へ改宗したのではありませんが、聖書への関心は強く、大学へ行き「キリスト教概論」などの科目を積極的に聴講していました。

 ある日、彼が私に、「聖書学者のA教授が『新約聖書の中には三位一体論はない』と言っていました」と、いたく感動した様子で語り始めました。ちなみに、神が三位一体であること(三位一体)はキリスト教神学の中核であり、すべてのキリスト教徒が信じている信仰箇条です。彼が以前入信していた教団は、三位一体論を強く否定していました。

A教授は講義の中で、「中世の時代にこんなこと言ったら火あぶりになってしまいますが……」と前置きして語ったそうで、聖書の学問的な読み方に感銘を受けていた彼にとって、A教授はあらゆる権威から超越した真理の探究者として映ったようでした。私は「それはそうかもしれない。でも神学史的にアプローチしなければキリスト教の意図するところは分からないんじゃないかな」と答えました。彼は独り言のように「うーん」と唸ってから、「でも新約聖書にはないそうですから」と結びました。その後、神学の議論をすることがないまま彼は職場を去ったのでした。

彼はキリスト教側の言い分には関心はなく、すべてはA教授の講義で明らかにされたと思ったようです。しかし、それでは以前彼がカルトにいたときの姿勢とあまり変わらないのではないかと思わざるを得ませんでした。やはり、両者の言い分をそれぞれ公平に学んでこそ、よりよい判断ができるのではないかと思うのです。

確かに、キリスト教を扱った一般向けの出版物には、教会で教える内容はもはや時代遅れだといわんばかりの記述が見られます。「定説を覆す」などと紹介されるセンセーショナルな主張は簡単に受け入れられ、それがゆがんだ形で理解されてしまうこともあります。

つまり、新しく主張されることや、既成の権威を批判する声は無批判に正しいこととして受け取られ、対照的にキリスト教の奉じる伝統的な見解はすでに乗り越えられたものと位置づけられてしまうわけです。おそらく、客観的な情報は、キリスト教側の言い分からでは得ることができないという前提があるように思います。

先の問題に戻りますが、確かに新約聖書の中には「三位一体」という言葉そのものや、三位一体論で用いる「位格」や「実体」といった概念は出てきません。その意味でなら「新約聖書の中には三位一体論はない」と言えます。しかしながら、後に三位一体論として定式化されるべき内実は、すでに新約聖書の中に存在しているのです。つまり、「新約聖書の中には三位一体論はない」という命題は、別にキリスト教を否定するものでも何でもないのです(A教授がどのような思想的立場かは別にして)。要は、その言葉をどのような文脈で理解するのかということなのだと思います。

今日、キリスト教会が大事にしている聖書や教義についての情報は確かな形で伝わっているのでしょうか。(信じる、信じないはともかく)少なくとも誤解されないように、確実な情報を効果的に発信していきたいと思います。(N)


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