| 『イエスとその福音』立ち読み |
推薦のことば
大阪大司教 レオ 池長 潤
このたび岩島神父様が執筆された『イエスとその福音』が出版されることになったことは、イエスの人物の実像とその教えの真髄に迫りたいと思う者にとってこの上ない喜びです。イエスの語った言葉や、彼のとった行動は、すべての人に、彼自身の思いや彼の使命、神やその世界、また自分たちの歩むべき道などについて、いつの時代にも変わらない大切な真理を伝えます。
そして、これらを知る源泉は「福音書」であるわけですが、福音書に慣れ親しんでいる人は、もう何回もその中に描かれているイエスの行いや言葉にふれているので、その一節を聞くと「ああもうそれはよく知っている」と思ったり、「そこは難解で、何回聞いても読んでもよくわからない」と感じたりということをくり返しているのではないでしょうか。
それだけでなく、イエスの言葉や行いについて理解していると思っていても、頭の中の知識に過ぎず、実はなかなか生き生きと心に響いていないし、生活の中に溶け込んでいるとはいえないものが多いというのが本当ではないでしょうか。
ところで、岩島神父様のこの新しい書物は、私たちの聖書、とくに福音書とのかかわりを一歩奥に進ませてくれるのです。イエスの言葉にしても、行いにしても、イエスにまつわる出来事にしても、この書物を読んでいると、今ここでイエスから直接聞いているように、あるいはここでイエスの行為に接しているように、さらには、私自身がイエスの出来事を体験しているかのように導いてくれるのです。しかもイエスの言葉や行いや、イエスの出来事の意味が、生で伝わってくるようにしてもらえるのが、この本の第一の魅力だと思います。
この本をお読みになって、もし私の意見に賛同してくださるのでしたら、友人や知りあいの方々に是非『イエスとその福音』をご紹介いただき、その方々もこの書物を手にしてご愛読くだされば幸いです。
二〇〇五年三月二七日 主のご復活の大祝日に
あとがき
岩島 忠彦
夜、寝る前によく小説を読みます。話の発展が気になって、なかなか眠れないこともあります。一気に読んでしまうと、その本から別れるのが淋しくて、文庫本の後の数ページの「解説」を何度も読み返したりすることもあります。作家先生ほどの文体を持った本ではありませんが、もうしばらく、お話を続けることにします。
『イエスとその福音』が生まれてくるまでには長い歴史があります。ずいぶん前、教会で一年間にわたって信徒の方々に「キリスト教信仰の見直し」についての講座をしたことがあります。あの頃、一週間のほとんど、次の週はどんなお話をしようかと考え続けていました。その時の講話は、テープ起こしの形で三十四の手作りのパンフレットになりました。その後、話の六回分は、海竜社から『いのちへの招き』として刊行されました。講話の全部を本にしてはと教友社からお話をいただいたのも何年か前のことです。さしあたり最初の十三回、つまり本書の部分に手を入れ始めたのですが、遅々として進まず。話したままのテープ起こしを、読むことのできる原稿にするには、新たに執筆した方がいいのではないかと思うほどに労力を費やしました。教友社と原稿のやりとりを繰り返しながら、やっと上梓するところまで辿り着くことができました。
さて、本書の内容をおさらいしておきましょう。推理小説ではないので、本体を読まれる前にお読みになっても大丈夫です。これはイエスについての本です。キリストではなく、ナザレのイエスです。つまり教会が主として信奉し、今信仰の中で交わりを持っているキリスト以前のイエス、あのガリラヤ湖畔を弟子たちと巡回し、地域の底辺にある人たちに父なる神の底知れない愛を身をもって伝え、やがて壮絶な死を遂げられたイエス――その教えと行動と運命を、整理されたアルバムのようにできるだけ分かりやすくまとめたものです。
イエスを知る主な資料は聖書です。ただ、これを資料としてだけ見ると彼の姿に迫ることはできません。聖書は信仰の書です。そこに流れる神さまへの思いを感じ、神さまからの光を受け止めてこそ、ユダヤ人イエスの環境に身を置くことができます。そこで一章と二章で新約聖書と旧約聖書の基本的な事柄をお話ししました。さらに三章でイエスの頃の時代背景を説明しました。福音書などの言葉を、当時のリアルな政治・経済・社会的背景のもとに置いたとき、それが明確な輪郭を取るからです。
四章以降で、イエスの姿を追い求めています。三十年ほどのナザレでの生活の後、イエスは神からの特別の使命を意識して神の国の福音を告げ始められます。イエスは数多くの神の国のたとえを残しておられます。この神の国の特徴について四章では扱いました。五章、六章では、イエスの言葉を中心に、その基本的教えについてご説明しました。簡単に言えば、神の私たちに対する限りない慈しみへの信頼と、その慈しみに基づいた隣人愛の実践への促しです。これらは、イエスの教えの中で二つの焦点のようにして、相互に切り離されないものとなっています。
イエスは教えの師ラビたちより、ずっと活動的でした。多くの病んだ人をいやし、彼らからは実感をもって救い主と見なされたことでしょう。神の命と慈しみは、告げられるだけでなくイエスによって実現されたのです。七章では、いやしを中心として、福音書に見られる奇跡物語の意味を、その社会的背景と共に説明しました。イエスの福音はユダヤ教社会に対立をもたらしました。八章では、徴税人・娼婦・サマリア人など、社会からも宗教からも相手にされなかった人々とイエスとのかかわりについてお話ししました。そこに神の愛の福音が現実的に形を取っています。逆に、イエスの福音は宗教家・政治家・金持ちからは、いとわれ危険視され始めました。九章はこうした論争や対立を取り上げました。
ここまでイエスの教えと行いを扱ったのですが、十章ではそれらをイエスという人物自身の辿った生の中に順序づけてみました。イエスの姿がより見えやすくなるために。彼の最後の道程は十字架の道です。十一章では、イエスの受難と死を、初代教会の人々に倣って受難史の黙想をする形で偲びました。
十二章、十三章は、先の言い方をすれば、むしろキリストに関することかもしれません。しかし、生前のイエスをきちんと押さえた上で、この方を私たちが信仰しているキリストとして見ない限り、ナザレのイエスを根源から理解することはできません。ここに至って、私たちも福音書を書いた人たちと同じ視点を持つ必要があるのです。彼らは、細切れに伝えられたイエスのお言葉やふるまいを収集し、復活を通して明白になった神の子キリストへの信仰の光によってそれらを見直し、そこからイエスの姿を描き出したのです。そこにあるイエスは単なる事実や現象だけを羅列した描写ではありません。いわば真のイエスに肉薄しているのです。私たち現代人は、最初から信仰に彩られた絵を突きつけられることを好みません。ですから、できうる限り、史的イエスを基本にして語ってきました。そして最後に、これに繋がるキリスト信仰の発生を述べるようにしました。つまり福音書を書いた人とは、ちょうど逆の道筋を追ったということです。しかし最終的には、同じことです。イエスなしのキリストも、キリストなしのイエスも意味を持ちません。
こうして、十二章では、イエス死後の復活について、主として弟子の視点からご説明をしました。この重要なことがらについて少しでも整理された理解を持って頂ければ幸いです。さらに新約聖書に見られるキリスト信仰の展開について十三章で扱いました。ここではほとんどスケッチ程度で、本来もっと詳しく見てみる必要のある大切なことがらです。
以上の「まとめ」からもお分かりいただけるかと思いますが、イエスへのアプローチは、単なる史学的方法だけでは限界があります。このところ生前のイエスを追究する聖書学者たちが、次々と大部な著作を刊行しており、「史的イエスの第三探求」期などと呼ばれています。人によって様々ですが、そこで示されるイエス像にがっかりさせられることもかなりあります。大量の資料と厳密な方法論を駆使しての成果は、それ自体としては貴重な貢献です。でも、なにかが足りない。もっとはっきり言えば、神さまが出てこない、福音が語られてない。だから、イエスの奥深い関心が見えてこない。ときとして史実についての執拗なまでの懐疑が、かえって事実から離れた結論に導いているのではないかと思うこともあります。イエスの直弟子たちにまで繋がる教会の信仰に基本的な信頼を置くことなしに、本当の意味でイエスについて語ることはできないのではないかと思います。
私はイエスのみ名をいただくイエズス会という修道会で生きています。イエズス会はイエスと共に、イエスのために生きることを本望としています。こうした自分の信念と学問的知識を完全に分離することはできません。本書は、教会での講話という性質上、無防備な断定になったり、実証の過程を省略したりといった面がありますが、私なりにテキストの選択や主張について今日の議論を踏まえているつもりです。本書が、キリストへの信仰が確実な知識に支えられること、またイエスについての知識がキリストへの熱い思いに繋がっていくことへの手助けになれば幸いです。
かつて、「イエスの姿を求めて」(『神学ダイジェスト』六九号)という記事の中で、「近い機会に、もう少し腰をすえて、同じ課題に取り組みたいと考えている」と書きました。『イエスとその福音』をもって、一応このお約束を果たしたことにしたいと思います。しかし、冒頭でお話しした「キリスト教信仰の見直し」はこれで終わってはいません。信仰や祈りや教会生活などについて別の機会にお話しできることを願っています。
本書の成立にかかわってくださった方々に、敬意をこめた感謝の念を表したいと思います。……また、推薦のことばをお寄せいただいた池長順大司教様に感謝いたします。大司教様は先輩のイエズス会員であり、長年私のよき理解者でいてくださいました。同僚の山岡三治師は、最後に原稿に目を通す労をお取りくださいました。
この本の原点は、東京の聖イグナチオ教会での講座にあります。あのとき開講をお勧めくださった当時の主任司祭カンガス神父様、クラスを切り盛りしてくださった数多くのヘルパーの方々、毎週熱心に耳を傾けてくださった百名を越える信徒の方々が、たぶん本書を一番奥で支えているものだと思います。この方々にあらためて感謝すると同時に、イエスを愛するすべての人々に本書を捧げます。
二〇〇五年 復活祭の日に
上石神井イエズス会神学院において