| 『風のなごり』書評 |
日本人の心根に響く福音の言葉
イエズス会・竹内修一神父による心温まる聖書エッセイ。日常的な出来事を題材に、わかりやすい言葉で福音のメッセージが綴られています。疲れたとき、心がすさんでいるとき、自分を見つめ直したいときなどに、読者を慰め、励まし、祈りへと導いてくれます。爽やかな文章から、聖霊の息吹があふれ出てくるようです。
「私たちの頑なな心がしなやかなものとされるなら、この風はもっと自由に、もっと軽やかに、私たち一人ひとりの中を、吹き抜けていくだろう」(本文より)。
(『カトリック生活』2005年1月号、編集部)
あたたかい心を取り戻すために
阿部 仲麻呂(日本カトリック神学会評議員・サレジオ会司祭)
風が吹く。なごりが残る。風は目に見えない。しかし、風が吹いたあとには、必ず、何かが残る。人は、あとになって神の思いを発見する。風が通るとき、たしかに、何かが変わる。春ならば、草花が息を吹き返し、夏ならば、大樹の葉がゆらめきながら涼しさを誘い、秋ならば落葉が幻想的な色彩を帯びて美しく舞い、冬ならば粉雪のダンスが心をあたためてくれる……。神のあったかさそのものも目には見えない。しかし、神のあったかい思いが吹いたあとには、必ず、人は新たに生まれ変わっている。
竹内師のエッセイは、心にしみる。朝になると、まきばの草にいつのまにか降りている露のように。そっと、おだやかに。四十九編の祈りの風。それらを、ゆっくりと読みながら味わうと、たしかに、何かが変わる。
ふれあうこと。イエス・キリストと。あったかく、おだやかに。ただ、それだけ。キリスト教のはじまりは、ほんとうはそうだった。しかし、二千年の歴史の流れが、人々の欲望が、ふれあうことを忘れさせてしまったのかもしれない。今の私たちのまわりにも、形だけの決まりごと、形だけの奉仕、形だけの祈りが、なんと多いことだろうか。キリスト教の形だけが幅を占め、キリストの心が見失われてしまっている。教会の組織はあっても、あったかさがない。そして、いつのまにか、あなたも私も、窮屈な人生にあえいでしまっている。
しかし、そうではないはずだ。断じて。イエス・キリストは私たちを解き放ちに来たのだから。――「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)。そうだ。神のあったかい思いは、あまねく吹きわたり、なごりを残して去っていく。
「キリストの心」を取り戻そう。あったかい思いを、私の心にも。竹内師の本を読んで、ふっと我に帰ることができた。ほんとうによかった。ありがとう。
(「カトリック新聞」2005年2月20日号)