『こころの巡礼−歳時記と歩む』立ち読み


まえがき

 私は一九七六年にイエズス会に入会し、一九八四年に司祭に叙階されました。修道会に入会してから今日に至るまでのほぼ三十年間、さまざまな場所で多くの方々に出会えたことは、私にとってかけがえのない宝物になりました。外国に滞在する機会が比較的多かったせいか、外国にいても、日本にいても、またふだんの仕事をしているときでさえも、いつも意識しますのは、自分が日本人であり、同時にカトリック司祭であることです。そして自問するのです。私ははたしていまそのふたつをよく生きているだろうかと。
 日本人であることは、私にとっては古来の日本人らしい素朴な感性に気付いて、たえず育てることです。そうすると気持ちがとても落ちつきます。空気がおいしくなります。また司祭であることは、イエス・キリストを愛し、敬い、そのあとを最後までたどろうとすることです。そう願うとき、どこからか力がわき出て、やっぱりもう一歩先に進んでみようかという気持ちになるのです。 本書はそんな私のたどたどしい歩みを紹介したものです。僭越な書き方もあったかとも思いますが、未熟ゆえとご理解をいただければと思います。読者の方々が、本書のどこかでほんのひとときであれ幸福を味わってくだされば、私はとても嬉しいです。


本文から(1)

(1)除夜の鐘と初詣―年末年始の宗教性   

序  『歳時記』と日本人のアイデンティティ−
 「歳時記」という場合、「四季おりおりの生活や自然を記した書物」と「季語を分類して解説をつけた俳諧の書物」という二つがあるが、このシリーズでは、双方を参考にしながら、日本人の宗教的心情にスポットをあてたい。
まず後者の俳諧の『歳時記』であるが、これは海外に住む日本人に大変重宝がられているという。俳諧についてまったく素人の筆者でさえ、外国に滞在するときは『ポケット版(俳諧)歳時記』を忘れない。外国に住むと、いやがおうでも自分が日本人だと自覚させられる場合が多いし、皮肉なことに滞在が長くなるほど日本的感性の方は頼りなくなる。そんな自分を少しでも取り戻すために『歳時記』」は大いに役立った。
 『俳諧歳時記』の一句一句を読み始めると、日本の風景や四季の移り変わりのなかにしらずしらずのうちに入れられる。きれいな日本語も落ち着きを与えてくれたりして、これが日本人というものなのかと思ったことである。そこで歳時記を借りて日本人の日常のなかにある「信仰の芽」を発見し、そのなかにキリスト教信仰を日本人として育てるためのヒントを見つけたいと思う。

年末年始の宗教性
(1)環境づくりの宗教性
 年末年始はおそらく日本人がいちばん「日本人らしく」なるとき、しかももっとも「宗教的」になるときであろう。新年を迎えたとしてもさして気候が変わるわけではないし、ましてや自分が変わるわけでもないのだが、日本人はこの時期にとくに神妙になる。
この特別なときに、過去の一年何があったのかを振り返る。その振り返りかたが日本独特だと思う。大晦日と元旦をからだ全体で味わおうとしている。多くの人はホットした気分と後ろめたい気分の両方をかみしめるのであろうが、新年こそはという祈りに似た気持ちで新しい年を迎え、初詣のために歩きはじめる。その反省と希望を体験するひとときを助ける雰囲気づくりとして除夜の鐘が響き、観想修道院の祈りの風景がテレビに映し出されたりする。一つひとつの鐘の音で清められ、祈りを聞きながら新しい一年を迎える。口に出して祈るよりもむしろ、聴くこと見ることに宗教性が現れている。……

本文から(2)
「彼は豚小屋でイナゴまめで腹をみたしたいほどであった」
七年前のことであるが、アラスカのユピック・エスキモーの小村で冬の五ヶ月を過ごした。主任不在中の教会の留守番司祭として、クリスマス前からイースターまでを現地で経験した。その間の祈り会やミサにおいて、聖書の説明に苦労した。村民のほぼ全員が洗礼を受けているにもかかわらず、聖書地理と雪と氷ばかりの地域とは文化があまりにも異なるので、聖書があまりにも理解しづらいのである。「いつくしみ深い父なる神」を説明するために、放蕩息子のたとえの箇所を使おうとしたら、「豚ではわからないから犬にしてくれ」と言われた。しかし忠実で飼い主からの餌を待つハスキー犬と一緒では、豚と餌を争う放蕩息子の惨めさが出てこない。そこで筆者は聖書知識をこちらから教える態度を改めて、まず彼らの神体験について話してもらうことにした。するとひとりの父親が話し始めた。ある日のこと、漁を学ばせるためにまだ小さい息子二人を連れて遠方に出た。三日費やして、いくら探しても待っても魚がとれない。ついに一匹もとれず、保存食も尽き、食事もできずに日が暮れてきた。子供はおなかを空かせて泣き出した。自分も疲れ果てて、地面に座り込み、ただ茫然自失しているだけだった。しかたなく目をつぶって念じるほかはなかった。ところがふと見上げると川岸にクジラの子が動かずに待っているではないか。彼らはそれを料理してようやく野辺で死なずにすんだ。父親は子供に言った。「神は自分よりも本当の父親だ。神は私たちを養う方である。私たちを決して見捨てることはない」と。筆者にはとうてい及ばない説明であった。


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