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あとがき
四名のイエズス会司祭で、聖イグナチオ教会のホーム・ページに主日の福音の説教を連載し始めてから、三年半ほどになります。今回、教友社のご尽力で、一冊の説教集とすることができました。本の表題はどうするかと訊かれたとき、「みことばを生きる」というタイトルがちゅうちょなく出てきたのには、自分でも驚きました。ちょっと「気取っている」「構えている」といった感じがしないでもないので。でも、これらの説教は、福音の言葉を一つひとつ拾い上げて自分の生活の中で味わうという姿勢を貫いて書いてきたので、「みことば」と「生きる」が両軸となっており、これで決まりということになりました。
三年分をまとめたので、典礼暦A年、B年、C年とまとめてみたのですが、何となく素っ気ない。そこで一つひとつの説教に題を付けることにしました。改めて毎月書いていたものを読み直してみてまず思ったこと。「自分らしいな」ということです。色々な書き物などをしてきましたが、やっぱりお説教というのが一番自分の思いが正直に反映するのだと再認識しました。いわば、自分の心のひだの一本一本をよく映る鏡で見るといった感じでしょうか。
私の家はカトリックであったわけではなく、たまたまミッション校に通い、キリスト教と出会いました。高校一年で洗礼を受け、イエズス会という修道会に入会し、司祭となり、大学の神学部で教え、隣の教会で司牧のお手伝いをしてきました。その間、ずっと求めていたこと。それはお仕着せでない自分の信仰を生きていくということでした。受けた信仰が自分の生活とズレを生じることがないようにと言ってもいいかもしれません。そんな自分の心の軌道のようなものがこの説教集にはよく表れています。
もちろん、自己宣伝する気は毛頭ありません。クリスチャンが少なく、西欧に比べて伝統も浅い日本で、地に足がついた信仰をするということが自分の関心だったわけですから、これをお読みになる方々にも共感していただけるだろうという、ほとんど確信に近い思いを持っているからです。通常の言い方をすれば、インカルチュレーションの試みと言ってもよいかもしれません。
これらの説教のもう一つの特徴は、神さまのいのち、キリストの現存、その恵みといったことが繰り返し強調されることです。これはもう文化的背景とか土着化といった次元のものでないといった感じのことがらです。そこでは、「ユダヤ人もギリシア人もない、男も女もない」といった感じです。私たちに共通の生の土壌を踏まえながら、そこからこのあふれんばかりの信仰の賜物を読者の方々と分かち合うことができれば幸いです。
本書は三部に分かれ、それぞれ典礼暦に従って配列されています。第一部は、自分の内面や生き方に向かう内容が多いようなので「自分探し」、第二部はイエス・キリストご自身に目を向ける要素が多いので「キリストと出会う」としました。第三部では信仰を生きるさまざまな断面が扱われているので、「生の途上にて」と題しました。交代でおこなってきた説教リレーなので、扱われる福音が偏っているのが残念ですが、ご容赦下さい。……
二〇〇三年 待降節を前にして
東京 上石神井イエズス会神学院にて 岩島 忠彦