『CONSCIENCE AND PERSONALITY』 内容紹介

 良心、コンシャンスをキーワードに、日本におけるキリスト教の受容の可能性を探求する

  著者が米国・バークレー・イエズス会神学大学院に提出した博士論文(英文、2002年)。 
倫理思想のキーワードである
Conscienceと日本語の「良心」の意味領域の違いを明らかにし、異文化間の深い相互理解を現実のものとする。日本語の「良心」は、キリスト教独自のメッセージを通してさらに豊かな内容を生み出し、そこにおいてキリスト教のインカルチュレーション(文化内開花)の可能性を見いだすことができると説く。
  同時に、西洋に向けた優れた日本的倫理思想の解説でもある。
 


 著者の言葉 『カトリック研究』誌より

  良心は、人格的存在としての人間の深奥に生得的に刻み込まれている。それは存在論的に人間存在を根拠づけ、倫理的に人格の成長を促す。「善をなし悪を避けよ」――これは私たちに対する良心の要請である。良心はただ単に、正不正や善悪の識別・判断の規範に尽きるものではない。むしろ人間が人間として生きるための根本的あり方を開示してくれる。それゆえ良心において人間は、自らの究極的な根源(神)の声を聴き、それと親しく語り合うことができる。この神との人格的関係が、人倫的関係の根拠をなす。
  誠は、良心の最も際だった体現の一つである。この誠を通して良心の深い意味に立ち帰るならば、私たちはまた日本の福音化・インカルチュレーションの新たな可能性を見出すことができる。福音が由来するのは神の愛であり、福音が向かうのは隣人への愛である。神への愛は他者への愛において体現されなければならない。この真実は一人キリスト教のみに制限されるものではない。むしろそれは、あらゆる人々に投げかけられている根本的な招きである。
                                  (竹内修一、「良心と福音」、『カトリック研究』72号)


 概 要

  コンシャンス(Conscience)あるいは良心は、生得的に人間の奥底に刻み込まれている。それは本来的に「善をなし悪を避ける」よう私たちを招く。「コンシャンス」の概念は19世紀に日本に取り入れられ、「良心」という言葉で表された。前者はキリスト教から、後者は儒教から、その中心的意味と理解とを受け継いでいる。
  それゆえ「良心」は、基本的には「コンシャンス」の意味するところを現しているが、両者がまったく重なり合うというわけではない。「コンシャンス」が私たちに、善悪の判断をさせたり、良心の呵責を覚えさせたりするのに対して、「良心」はそれ以上に、人間の本性に深く根ざしている。
  換言すれば、良心は単なる知的能力を超えたより深い次元での人間の状態(disposition)と見ることができる。

  この良心おいて私たちは、日本におけるキリスト教のインカルチュレーション(inculturation:文化的受肉)の可能性を見出すことができる。つまり、コンシャンスと良心についての注意深い比較研究によって、キリスト教の中心的メッセージを体現(具体化:embodiment)することができるのである。
  その際、良心は、私たちにとってほとんど「いのち(life)」と同じ意味をもつ。つまり良心は、それによって私たちが人間らしく生きることのできる羅針盤のような働きをなすのである。
  この洞察のヒントを私たちは聖書の中に見出すことができる。なぜなら、聖書はまさに「いのちの書」であるからである。良心に従って生きるとは、それゆえ、イエスが教えられたように、いのちを慈しむことにほかならない。

  良心が最も際だった形で体現されるのは、「誠」である。誠は、三つの様相をもつ。誠実(sincerity)、現実(reality)、そして統合(integrity)である。これら三つの様相が最も優れたあり方で実現されているのを、私たちはイエスの中に見出すことができる。このように、良心についてのより深い探求によって、キリスト教がこの日本おいても適切に理解され、また受け容れられる可能性があるのをみることができる。

  以上の内容は、以下のような四つのステップを辿ることによってより明確にされる。まず、西洋の伝統においてコンシャンスがいかに捉えられてきたかを検討する。具体的には聖書においてコンシャンスはどのように扱われてきたか、また中世の代表的思想家であるトマス・アクィナスは、どのようにコンシャンスを位置づけたかをみる。次に、東洋における儒教の伝統の中で、良心はどのように理解され発展されてきたかを考察する。第三に、再び目を西洋に向けて、第二バチカン公会議(1962-1965)以降、コンシャンスがどのように捉え直されたかを考察する。特に、倫理神学の刷新に多大な貢献をなしたヨゼフ・フックスのコンシャンス理解に注目したい。そして最後に、これらコンシャンスまた良心についての理解が、今日の日本社会における良心理解にどのように貢献するか、またそれによって、キリスト教がこの日本においてどのように捉え直され、新たに位置づけられるのかを検討する。(S・Y) 


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