『CONSCIENCE AND PERSONALITY』 書評

From bookcover:

Western Christianity is doctrinally and philosophically very different from traditional Japanese thinking, but in the domain of moral thought there are broad areas of fruitful dialogue, as Osamu Takeuchi's study demonstrates. Takeuchi puts the Japanese concepts of ryoshin (originally good mind, or conscience) and makoto (sincerity, reality, integrity) into dialogue with historical and contemporary Catholic moral theology. Takeuchi demonstrates that traditional Japanese moral thought has much to contribute to Catholic theology, not only for Japanese Christians, but for the global church. It also demonstrates the ways in which the Confucian heritage of Japan continues as a rich resources for the contemporary world.
Judith A. Berling, Graduate Theological Union



In our “global information age,” religion is often portrayed as a source of uncivil strife. Osamu Takeuchi’s splendid comparative study shows how Christian and Confucian traditions may find a common ground in their respective interpretations of conscience (ryoshin). Such dialogue, moreover, is mutually enriching, permitting an authentic inculturation of Christianity in Japanese culture and society. Marked by the very qualities
of makoto he commends: sincerity, reality, and integrity, Takeuchi’s Conscience and Personality: A New Understanding of Conscience and Its Inculturation in Japanese Moral Theology deserves a wide and appreciative audience.
William R. O'Neill, S.J., Jesuit School of Theology at Berkeley



キリスト教のより深い理解を目指すためにも、日本人の精神性とイエスの生き方を結びつける方法論からインカルチュレーションの新たな可能性を学んで各民族の生を豊かにするためにも、必読の名著である。

                         阿部仲麻呂(サレジオ会司祭、白百合女子大学、カトリック神学院講師)

 竹内修一(たけうち・おさむ)師は、イエズス会司祭である。彼は、上智大学神学部にて倫理神学を教えている新進気鋭の研究者である。竹内師は、長年、アメリカ合衆国の
Jesuit School of Theology at Berkeleyにて倫理神学の研究を深め、博士号を取得した。その博士論文が本書である。

さて、本書の内容は、表題によって明確に示されている。――『良心と人格――日本の倫理神学のうちに見る良心とその文化受肉に関する新たな理解――』(Conscience and Personality, A New Understanding of Conscience and Its Inculturation in Japanese Moral Theology.)。言わば、キリスト教における「良心」(conscience or Ryoshin)概念が主題になっているのだが、そのような「良心」は万人に共通に備わる「神のいのち」そのものであり、日本人としての生き方の極致である「誠」(Makoto=sincerity=reality=integrity)とも密接につながるものであることが、あざやかに論証されている。 

 ちなみに、以上のような四部構成の内容は、すでに日本では「日本版論文」として公にされている。――「良心と福音――誠によるインカルチュレーション――(
Ryoshin and Christianity, Inculturation through Makoto)」(『カトリック研究』第72号、上智大学神学会、二〇〇三年、八三〜一二三頁所載)。この論文には英語の「要約」も添付されており、それを読めば竹内師の論点が一目瞭然である。――We can find the possibility of an inculturation of Christianity in Japan in and through ryoshin. In other words, we can embody the fundamental message of Christianity by a careful comparative study of Christianity and ryoshin. (p.C). そして、彼の問題意識は以下のように表現されている。――「一般的にコンシャンスの概念はキリスト教に、良心の概念は儒教に由来する。しかし両者は互いに矛盾し合うものではなく、むしろ良心のより十全な理解のために統合されるべきである。」(『カトリック研究』第72号、八四頁)。……

 本書全体は、四つの部分から構成されている。――第一部は「良心の伝統的理解」(The Traditional Understanding of Conscience)。第二部は「共同体としての良心」(Ryoshin or Conscience as Society)。第三部は「良心についての第二バチカン公会議後のアプローチ――ヨゼフ・フックスの貢献――」(Post VaticanU Approach to Conscience: The Contribution of Josef Fuchs)。第四部は「日本における良心の再検討」(Re-examination of Ryoshin in Japan)。きわめて明快で無駄のない記述である。まるで、岩石のなかから金を精製するように、貴重な考察を東西精神史の流れのなかから抽出して、私たちの目の前に提示してくれている。

 内容を詳しく見ていこう。――第一部では、個々人と共同体との生き方の規範として どの時代の人間にも常に通用する「良心」(conscience)の重要性を強調したうえで(Individuality and Communality)、「良心」が旧約・新約聖書のなかでどのように理解されてきたのかを明らかにし、中世のトマス・アクィナスによってキリスト者の生活規範として概念化されたプロセスを説明している。つまり、キリスト教的人間観を「良心」(Synderesis)概念を手がかりにして述べている。

 第二部では、日本人の「良心」概念の形成に大きな影響を与えた中国の孟子(Mencius)や『中庸』(The book of Chung-yung)や王陽明(Wan Yang-ming 14721529)など、いわゆる儒教の伝統における「良心」(liang hsin)論を一覧してから、やはり儒教の伝統を受容して日常生活に活かしてきた日本人特有の「誠」(Makoto)概念を「良心」の具体的表現として説明している。その際、伊藤仁斎(Ito Jinsai 16271705)、吉田松陰(Yoshida Shoin 18301859)、明治期の哲学者などの学説を用いている。ここにおいても、個々人と共同体との生き方の規範として「良心」の重要性を強調している。

 第三部では、第二バチカン公会議以降の教会の「良心」観を倫理神学の発展に多大の貢献をしてきたヨゼフ・フックス(Josef Fuchs, S.J.)の倫理神学思想を分析することによって明らかにしている。――「第二バチカン公会議が倫理神学を刷新するのに貢献した二つの点を指摘するとするならば、@掟中心的なアプローチから人格中心的なアプローチへのシフト、およびA聖書の原点に立ち帰るということである。」(One can point out two contributions to the renewal of moral theology by this Council: a shift from a law-centered to a person-centered approach and a return to Scripture.p.139)。フックスは、個々人と共同体との生き方の規範としての「良心」を「キリスト教倫理=人間倫理」(Christian morality=human morality)というテーゼおよび「根本的自由」(Basic freedam)の重要性に着目することで基礎づけており、「自律的倫理観」(Autonomous morality)を唱えている。このようなフックスの「自律的倫理観」の立場が西洋と東洋の良心論を一つに結びつける重要な学説として、竹内師によって評価されている。

 第四部では、日本人の生き方に「良心」がおよぼす影響力を再検討している。言わば、「インカルチュレーション」(Inculturation)と「福音化」(Evangelization)の試みである。ここにおいて、竹内師の独創的な見解が述べられていく。「良心」(Conscience)は、「人格」(persona)と同義であり、「至誠」(absolute Sincerity)を目指している。そして、キリスト教信仰は「良心」を通じて体現されていく。『カトリック研究』第72号に掲載された竹内師の論文から関連箇所を引用しておこう。――「良心は超越性(transcendence)と体現(embodiment)によって成り立つ。私たちは超越性と体現とのユニークな一致をイエス・キリストにおいて見出す。神としてキリストは超越性を示し、人間としてイエスは体現を現す。」(『カトリック研究』72号、107頁)。「神のみ言葉はいのちの言葉として絶えず働く。人はこのいのちの言葉を良心において聴く。それゆえキリスト者にとって、『イエスに従うこと』(sequela Christi)は『いのちの充満』を見出すことでもある。律法の遵守によってではなく、イエスに従うことによってキリスト教的価値を体現する。」(『カトリック研究』72号、109頁)。

 以上、簡単に見てきた四つの部分が、どのように連関しているのだろうか。竹内師は、東西文化に共通する人間性の根源を追求するときに「神の呼びかけによって活かされる人格」に突き当たるという事実を、「信仰の歴史」(旧約→新約→中世思想・儒教思想→第二バチカン公会議→現在の日本)をたどることによって理解しようとする。その際、竹内師個人の「生活の座」における内的体験と共同体において経験してきた「関係性」からの学びが、研究の動機になっている。

 特筆に値するのは、「誠」概念を手がかりとして、あざやかに展開される「インカルチュレーション」と「福音化」についての見解である。日本人の個々の人格は「誠」においてイエスの生き方と結びつき(キリスト論視点と呼べるだろう)、共同体における間柄(human relationship)の重視は「キリストのからだである教会」を豊かにする(教会論的視点と呼べるだろう)。キリスト教のより深い理解を目指すためにも、日本人の精神性とイエスの生き方を結びつける方法論からインカルチュレーションの新たな可能性を学んで各民族の生を豊かにするためにも、必読の名著である。

 竹内師の本を読みながら、評者は、日本人の「誠」の精神とイエスの生き方とが同質であることを実感して、思わず嬉しくなった。現在の日本では、ちょうどNHK大河ドラマ「新撰組!」が放映を開始したこともあり、どこの書店でも新撰組に関連する歴史書や小説が飛ぶように売れている。江戸幕府旧政権(16031867)が明治維新新政権(1868)に取って代わられる激動の時期に、新撰組は、最後まで幕府を守り抜くために闘い続けて殉じた警察実働部隊である。言うまでもなく、新撰組の隊旗には「誠」という一文字が書かれている。そこに、負けるとわかっていても潔く自分たちの信念を死ぬまで貫き通す真摯さが見受けられる。どんなに不利な立場に追い込まれても志を変えないで、ひたむきに生き抜く凄絶さには、確かに、イエスの十字架上の死とも重なり合う共通性がある。
 日本人に固有な心情傾向として「判官びいきないし惻隠の情」「いざ鎌倉のモットー」「赤穂浪士の敵討ちに対する共感」「敗北の美学」「散りゆく桜花の潔さに感動する美意識」などの風潮があるが、そうした心情の根底には、どんな苦境に陥っても自由に自らの意志で正しいと信じることを誠実に守り抜く「泰然自若とした気概」が、確かにある。それを手がかりにすることで、日本人は、イエスの生き方に倣うことが可能になるのだろう。

 竹内師は、欧米のキリスト教倫理学研究の歴史的伝統を身につけると同時に、東洋の実践的行動理念との比較を試み、さらには日本人としての生活様式や感性を深く見つめながら、イエス・キリストの生き方の根底に潜む真実を明らかにしようと努力している。評者は、竹内師の幅広い比較研究の実績を尊敬しているが、それ以上にその誠実な人がらには心から感動させられ、おだやかなあたたかさを感じている。つまり、私は、竹内師の生き方を通して「キリストの現存」を実感するのである。まさに、彼は、イエス・キリストのあとに従う司祭としても優れているのである。(『カトリック研究』73号、2004年
、一部割愛。表題=当HP)


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