立ち読み

序 論 ― キリスト教の原点 ―

 
  どのようにしたらキリスト教を正しく学ぶことができるのだろうか。
  一言で「キリスト教」と言っても、それは非常に多義的で複合的な現実である。キリスト教には二千年の歴史があり、その中で発展してきたさまざまな教派があり、教会の組織や構造があり、教義があり、典礼がある。キリスト教独自の慣習があり、倫理があり、霊性がある。キリスト教の音楽があり、芸術があり、文学がある。それらは皆、キリスト教を学ぶための切り口にはなるだろう。人は興味に応じて、たとえば音楽や美術を通じて、キリスト教に親しむこともできるだろう。しかし、それでは必ずしもキリスト教の本質を理解するに至らないかもしれない。偏ったキリスト教理解に終わってしまうかもしれない。

  キリスト教には、これを知っておかなければ、他のどれほど多くの事柄を知っていても、キリスト教を知ったことにはならないという、しかし逆に、これさえ知っておけば、他の末端的な現象を知らなくても、キリスト教の本質を理解したことになるという、そのような核心となるものがある。キリスト教を正しく学ぶためには、まずこの核心から始めなければならない。

  それは何かと言えば、それはキリスト教の原点であるイエス・キリストである。イエス・キリストの人格と思想こそが、およそキリスト教の成立と発展の源泉なのである。その生きざまと教えに接して、そこに神の自己啓示と、自分の生き方への呼びかけがあると信仰した人々が、「教会」という共同体を形成した。その信仰は、さまざまな時代と文化の中でさまざまに表現され、さまざまに展開された。これが今に至るまで、キリスト教という複合的な宗教現象を形成しているのである。したがって、キリスト教を理解するためには、まず創始者であるイエス・キリストがどのような人物であったのか、どのように生き、どのような教えを述べたのかを学ばなければならない。

  さいわいにして現代では、イエス・キリストの人格と思想に関する歴史的な研究がいちじるしく進んで、その本質的な部分についてはかなり高い蓋然性をもって認識することができるようになった。また、歴史的な研究であれば、信仰の有無にかかわらず、原則的にはだれにでも客観的に取り組むことができる。もちろん、史実として確認できない事柄や、ただある程度の蓋然性をもって推測するにすぎない事柄も少なくないが、それはそれとしてわきまえておけばよい。

  そこで、私たちの第一の課題は、まずイエス・キリストの人格と思想を歴史的に学ぶことである(本書『キリスト教の原点』)。もっとも、歴史的に学ぶと言っても、それは単なる歴史のデータを確認するだけには終わらないであろう。およそある歴史的なできごとを理解するということは、できごとの背景とそれを成り立たしめた要因を認識し、その文脈においてできごとを位置づけ、さらには私たち自身の実存的な経験に照らしあわせて考察するときに初めて可能となる。とくに歴史的な理解のための資料として聖書を用い、その解釈を研究の手段とする場合には、そのような内省は不可欠であろう。私たちはこれらすべてを含めた意味で、歴史的な考察をキリスト教の学びのための出発点とする。

  さらに、私たちの第二の課題は、イエス・キリストの人格と思想を基礎にして生まれたキリスト教の主要な形姿と歴史的な展開を学ぶことである(続刊『キリスト教の本質と展開』)。この場合にも、それは単なるキリスト教史の学びに終わるものではない。たえず原点であるイエス・キリストの人格と思想に立ち戻って、それがどのように歴史の中で受けとめられたのか、イエス・キリストへの信仰がどのようにそれぞれの時代と民族の精神性において、どのような政治的・社会的・文化的要因において受容され、表現され、生活の中で遂行されたのか、またそれが現代世界において(とくに私たち日本の社会に生きる者にとって)どのような意味をもつものであるのかを考察したい。(一部割愛)


あとがき ―― キリスト教概説の取り組みについて ――


  本書は、著者がこれまで二十年以上にわたって、上智大学で担当してきた「キリスト教概説」の講義内容のまとめである。学生たちが置かれている状況や感じている疑問などに応えて、聖書の読み方や、教養として知っておくべき歴史の知識など、もっとも基本的な事柄をあわせて取り扱うように心がけた。キリスト教のことを学ぼうと志す学生たちに、勉学と内省のための基礎として役立てていただければ幸いである。

  キリスト教をできるかぎり自由に、客観的に学ぶために、本書は歴史的なアプローチを取り、キリスト教の本質を成すものを歴史の源泉にさかのぼって理解しようとする。そのような理解は、信仰者であろうとなかろうと、勉学の意欲さえあればだれにでも可能だからである。そうして学んだキリスト教に対して実存的にどのようにかかわるかは、学生たち一人ひとりに任せたい。

  もちろん、どの人間も自分の世界観や人生観から離れてまったく中立であることはできないであろう。著者は幼少からのキリスト者であり、カトリック司祭であり、キリスト教神学の研究と教育を勤めとする者であるから、自分の信仰の立場が執筆に影響することは避けられないであろう。しかし、執筆の目的は学生たちを教化することではない。むしろ一人でも多くの人に、可能なかぎり客観的にキリスト教を学んでいただくことを意図している。キリスト教の学びはただ教養として人の心を豊かにするだけでなく、それぞれの人生を設計する上で少なからず示唆を与えるに違いないと確信しているからである。

  実際には、二学期制の大学の講義では、一学期間に多くても十五回の授業時間が限度である。これに呼応して、前編は前期に、後編は後期に取り扱うようにテーマを配分した。手ごろに読めるように、前編と後編とを分けて刊行するが、前編でキリスト教の原点であるイエス・キリストの人格と思想を学んだ上で、さらに歴史におけるキリスト教の発展とその主な教義や慣習等については、後編(続刊)を参照していただきたい。

  学生たちが明確な問題意識をもって取り組むために、それぞれの章と項目の始めに設問をおいた。また、章の終わりには、押さえておくべき要点として、いくつかの質問を出しておいた。その解答は、本文を熟読することによって得られる。聖書の引用は、すべて『新共同訳聖書』(日本聖書協会)による。また、固有名詞の表記法や、書名の略記法も、『新共同訳聖書』のそれに従った。

 二〇〇四年二月                             百瀬 文晃


戻る