キリスト教と出会った日本人 |
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天草四郎@
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、一六一五(元和元)年には豊臣家を滅ぼし(大坂夏の陣)、戦国時代以来の戦乱を集結させた。人々はこれを元和偃武(げんなえんぶ)の平和を味わっていた。
キリシタン対策に関して家康は、秀吉の方針を引き継いでいたが、貿易のうま味もあって宣教を黙認していた。しかし、予想外に信徒数が増大してしまったので、幕府はキリシタンの弾圧を始めた。そのため長崎では一六二二(元和八)年、五十五人の殉教者を出すに至った。これは「元和の大殉教」と言われるが、天草四郎が生まれたのはこの年であった。
天草四郎こと益田四郎(一六二二〜一六三八)は、キリシタン大名小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の長男として生まれた。甚兵衛は、行長の祐筆であったと言われるが、小西家没後は、肥後の宇土郡(現・熊本県宇土市)に帰農した。大矢野の庄屋だったという説もあるが、貧農ではなかったと思われる。しかし暮らし向きについては想像の域を出ない。
益田家がキリシタンだったことは間違いない。甚兵衛の霊名(洗礼名)は不明だが(一説にはペトロ)、妻も信者でマルタと呼ばれていた。長女の福はレジイナ、長男の四郎はジェロニモ(ヒエロニムス)の名を霊名に受けた(フランシスコという説あり)。二女・万の霊名は不明。
甚兵衛が息子四郎とともに、有馬(島原半島南部)から大矢野、上津浦(天草諸島)までの広範囲にわたる地域で宣教活動をしていたことは、細川家の『綿考輯録』に記録されている。
さて、後に一揆の総大将となる天草四郎とはどのような人物だったのだろうか。四郎については彼が美少年だったというほかに、多くの俗説が流布していた。とくに出生にまつわる話には興味深いものが多い。『切支丹天草軍記』は、素姓を隠して潜伏していたバテレンと遊女との間に生まれた子だとし、『耶蘇天誅記』では、豊臣秀頼の遺児「秀綱」だという説が紹介されている。
また、一揆に荷担しながら後に幕府側に寝返りただ一人生き残った山田右衛門作(やまだよもさく)の証言にも「さればかの四郎諸術を尽し、新たに奇特〔きどく=奇跡〕をなし、諸民に見するによりて、みな善心を翻へし、これこそ、でいうす(デウス)の生まれ変り、ただ世の常に非じとて、ことごとくその宗旨に心を染めおわんぬ」とある(『山田右衛門作以言語記』)。『耶蘇宗門制禁大全』にも同様の記述があるらしい。さらに、鳩を手招いて手のひらに乗せて卵を産ませ、それを割って中からキリシタンの経文を取りだしたとか、水の上を歩いたとかの奇跡物語が伝えられている。
これらの話は、一揆の首謀者たちが、無学な農民をキリシタン信仰の下に一致団結させるために、四郎を天からの使い、神童として創作したものだったと思われる。事実、『宇土町平作十兵衛口上覚書』は、天草周辺の村々に「切支丹広め申し候は、(渡辺)小左衛門にて御座候、四郎をでいうすの再誕のように申し候も小左衛門仕り成し候様に取さた仕り候」と報告している。
しかし四郎は、周囲の言いなりだったのではなく「浪人の援助と農民の団結で客観的には指導性を発揮した」(鶴田文史)ようだ。彼は九歳から長崎に出向いて学問をしており、そこにいた中国人の間に噂が広まるほど才知に長けた人物だった。父・甚兵衛も、各地に潜伏しているキリシタン集団(コンフラリヤ)の将来の指導者として、四郎を養成しようとしていたらしい。しかし、四郎は、充分に時が熟さないままに、擁立されることになる。
天草四郎A
島原、天草地方は、元来キリシタン大名の有馬晴信、小西行長がそれぞれ支配した地域だった。『耶蘇天誅記』には、有馬家が領主だったころはキリシタンが栄え、五穀も豊饒であったと記されており、『天草嶋鏡』にも、行長が税を軽減したり、年貢を免除したことが記録されている。つまり、領民にとってキリシタンが栄えた時代は軽税の良い時代であった。
しかし、キリシタン大名が没落し、天草・島原を、それぞれ松倉家と寺沢家が支配するようになると、彼らは農民のほとんどがキリシタンであることを知って棄教を迫り、激しい拷問を加えただけでなく、過酷な税を課した。他藩にも例がない囲炉銭、窓銭、戸口銭、死人に対する穴銭などの諸税を掛けたため、農民の生活は困窮した。
年貢を納められない者は、徹底的に処罰された。とくに島原では、蓑を着せて火を付ける「蓑踊り」や、女性を裸にして水に漬ける「水籠」などの残忍な刑罰がなされたという。
さらに、島原・天草地方では一六三四(寛永十一)年から凶作が始まり、飢饉となったことが苦しい農民の生活に拍車をかけた。この飢饉のために、ある村では一三六人もの犠牲者を出し、死体が道ばたに転がっている有様だった。
一六三七(寛永十四)年六月、天草・島原の農民たちは借米訴訟を起こしたが、それさえも拒否されてしまい、精神面、物質面ともに追い込まれた彼らは、あとは武力蜂起するしかないところにまで追いつめられてしまった。
そんな中、天地異変ともいえる現象が起こり始めた。この月の初めの頃、全国的に空が赤くなるという異常気象があったことが『天草風土記』に記録されているが、ほかにも桜が狂い咲きしたり、大きな彗星が現れたりしたことが、農民たちを不安にさせた。
農民の中には、近いうちに世の中が火の地獄となりデウスがキリシタンだけを救うためにやって来るという風説を信じる者も現れ、終末思想が次第に前面に現れるようになる。
帰農していた小西行長の遺臣たちは、この期を巧みに利用し、予言書『末鏡』(すえかがみ)なる書を六月中旬ころから各地を巡回して言い広めていった。一揆の準備も同時に進めていたらしい。
この『末鏡』は、一六一六(慶応一九)年、長崎からマカオに追放されたバテレン、マルコス・フェラロ(マルコス上人)が残していったものとされるものである。原本は残っていないが、『山田右衛門作以言語記』によれば、「向年より五々の暦数に及んで、日城に善童一人出生し、習わざる諸道を留め、通詞現前たるべし。さあらば、東西雲焼し、枯木に不時の花さかば、諸人の頭にくるす(十字架)を立て、海濠野山に白旗なびけ、でいうすを尊ぶ時至る可き也」という。
「向年(禁教令の年)より五々の暦数」を意味する一六三七年は今年であり、実際に天地異変もあった。この「善童」こそ益田四郎に違いないと、彼らは農民に説いて廻ったのだろう。先に紹介した四郎に関する逸話も、この六月から十月にかけての短期間に流布したものだった。ただしこの時は、一揆の大将ではなく宗教上のカリスマ的存在として期待されていたに過ぎなかった。
四郎は、十月七日に宮津で四郎大夫時貞と名乗り、そこに礼拝堂を設けた。九日には上津浦で民衆の前に現れ、説法を行った。
「威厳を正し衣装を修め、天女の如く装ひて、建達(コンタツ)を左手に携さへ、上座に設けたるしとねの上に着座し」ていたという(『耶蘇天誅記』)。
天草四郎B
「不憫や、ぜんちょ(異教徒)の輩、やがて三教敗転の期至り、耶蘇一宗の世となるとママコスが書残せし未来記の旨を疑い、いたずらに百年の生計をなして明日の滅亡を知らず」。
それが四郎の第一声だった。そして彼が奇跡を行ったのでたちまち二百人が帰依したという。困窮から救い出してくれる救世主のうわさは瞬く間に広まっていった。そのため、五千人以上の棄教者がキリシタンに立ち返ったという。「神童」四郎は計画通り、民衆の心をしっかりとつかんでいった。
一方、一揆の首謀者である小西の遺臣らは着々と準備を進めていったが、十月二十五日、有馬でのキリシタン集会を弾圧した代官林兵左衛門を返り討ちにしたことで計画が表面化した。一揆の首謀者らは、「審判の時が来たので、デウスの敵対者である代官や、異教の僧侶たちを討ち取ろう」と回状を各村の庄屋、名主らに送って武力蜂起を呼びかけた。
それを受けて農民たちは団結し、島原の農民たちは島原城へ、天草の農民たちは富岡城へ攻め上った。はじめ一揆勢はともに優勢だったが、島原城も富岡城も簡単には落とすことができず、退却を余儀なくされた。
双方とも組織的に戦うことが必要であると悟り、団結の象徴として四郎を総大将に迎えようと、大矢野にいた四郎に使いを出した。彼は申し出を受け入れ、村ごとに人口調査とキリシタンの誓詞をさせたという。
四郎を総大将に戴いた一揆勢は、原城に立てこもるために終結。十二月十日までに籠城のための体制が整えられた。非戦闘員二万人を含む総勢三万人。城内には十字架が描かれた陣中旗がはためいていた。
幕府もこの事態を重く見て一揆弾圧のために加勢をし、幕藩連合軍は十二万に及んだ。しかし、一日目の攻撃に失敗、元旦に第二回の攻撃を仕掛けたが、総大将の板倉重昌は無惨にも討死。後を引き継いだ松平信綱は兵糧攻めに作戦を変更した。
一揆側の戦いの指揮は、小西の遺臣らが当たっており、四郎は本丸に作られた祈祷所にこもり、祈りにふけっていたという。原城内では次第に食糧が底をついてきたことに加え、天の使いであるはずの四郎に砲弾がかすめるという事件が起こるにいたって、不安がみなぎるようになっていった。
幕藩軍は、食糧がなくなったことを確認すると、二月二十七日に総攻撃に出て、翌日には原城を攻め落とした。非戦闘員を含め一揆に参加した全員が殺されるという壮絶な結末だった。
四郎は傷ついていたところを討ち取られたらしい。上等な着物を着た若者がいたので首を取ったところ、四郎のものと判明した。四郎と母と姉の首は長崎の出島にさらされたという。
天草・島原の乱の結果、幕府はキリシタン禁制を強化し鎖国を完成させたが、一方で領主の苛政を認め、これを処罰した。
この乱は、信教の自由を求めての宗教戦争だったとは言えないだろう。キリスト教は重税に耐えかねた農民たちを団結させる役割を果たしたにすぎなかった。
しかし、城内の一揆軍から幕府軍へ放たれた矢文の中に「天地同根万物一体、一切の衆生貴賤を選ばず」(『耶蘇天誅記』)という一文があるが、ここにある、すべてのものが平等だという思想は、彼らが戦いの中にあっても福音の真理に支えられていたことを裏付けていると言えるのではないだろうか。士農工商の身分制度が確立される時期にあって、特筆すべきものといえるだろう。その後、天草四郎は圧政に苦しむ農民たちの心の中に英雄として生き続けた。
進む聖書の翻訳@ ヘボン
ヘボン式ローマ字の考案者であるヘボンは、一八一五(文化一二)年、米国ペンシルベニア州に生まれた。ヘボンとはヘップバーンが訛った呼び方で、本名はジェームズ・カーチス・ヘップバーンといった。
彼はプリンストン大学を出た後、ペンジルベニア大学で医学を専攻し、医学博士の学位を取得する。卒業後、米国長老教会の海外伝道医として働く道を選んだ。その選択には、学友たちの影響があったらしい。
中国伝道を志した彼は、一八四一年、身重の妻クララとともにアメリカを離れる。約三カ月に及ぶ船旅は厳しく、妻が初子を流産してしまうという困難の中、彼らはシンガポールに上陸し、中国が開国されるのを待った。しかし、伝道地のマカオ、アモイでは、気候や水質上の問題、マラリヤなどに悩まされ、結局一八四五年、ヘボン夫妻は大きな犠牲を払いながらも、失意のうちに帰国することになった。その後、ニューヨークで開業医として大きな成功を収め、十三年間、彼は安定した生活を送っていた。
一八五九(安政六)年、日本の鎖国が解かれると、それを知った彼は病院と家を売り払い、一人息子を残して、日本へ向かった。当時四十四歳。横浜に到着後、神奈川の成仏寺に居を定めた。半月後来日した宣教師S・R・ブラウン(一八一○〜八○年)もこの寺にともに住むようになった。
当時日本には病院がなかったため、ヘボンは宗興寺で医療活動を始める。天然痘、結核、眼病などの患者が大勢彼を訪れた。彼は診察費を取らずに献身的に働き、人々からの大きな信頼を得た。
一方で彼は「ヘボン塾」を主宰し、英語や地理、歴史を教えた。禁教下だったが、授業の前に必ず聖書を読み、祈祷した。塾の出身者には、後の外務大臣・林薫、日本初の医学博士三宅茂、総理大臣となった高橋是清などがいる。日本の男女共学の初めであった同塾は、明治学院大学の源泉である。後にヘボン夫人が作った女子クラスは、キダー塾を経てフェリス女子学院へと発展。ヘボン塾は近代日本教育の基礎を作ったと言える。
『和英語林集成』の編纂もヘボンの功績のひとつである。彼は、新しく聞いた言葉を記録していくという地道な作業を七年間も続け、収録数二万語の和英辞典を作り上げた。
辞書を完成させると、ヘボンは聖書の翻訳に本腰を入れるようになる。来日時にギュツラフ訳を持って来たほど日本語訳に関心があり、一八六一(文九元)年ごろからマルコ福音書の翻訳を始めている。これは漢訳版からの翻訳だったらしい。
ヘボンは米国聖書協会あての手紙で、禁教下での聖書印刷の困難に言及し、「生命の危険がある」仕事だと書き送っている。しかし、まったく動ぜずに、熱心に翻訳に取り組んだ。
彼は、聖書の翻訳は個人ではなく共同で行うべきだと考え、S・R・ブラウンとともに作業を進めた。訳稿が焼失するなどの困難を経て、一八七二(明治五)年、『新約聖書馬可伝』、『新約聖書約翰伝』、翌年に『新約聖書馬太伝』を出版。キリスト教の発展に寄与した。
ヘボン夫妻は、聖書の翻訳が一段落ついたこと、教育事業が軌道に乗ったこと、後継者が育ったことなどを理由に、一八九二(明治二五)年に帰国の途に着いた。
日本政府は、ヘボンの功績を称えて、一九〇五(明治三八)年、勲三等旭日章を贈った。ヘボンの九十歳の誕生日だった。そして、一九一一(明治四四)年九月二十一日、奇しくも明治学院大学のヘボン館が焼失したその日、彼も九六年の人生を終えた。
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進む聖書の日本語訳A 奥野昌綱・井深梶之助